日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~ 関ヶ原で徳川四天王・井伊直政を狙撃した男
日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~【柏木源藤】
東軍の予定が、やむなく西軍に
この時、22歳になった源藤は主君の川上忠兄に従い、島津義弘の軍勢に加わっていました。島津家は当初は東軍に付く予定であり、家康の家臣が籠城していた伏見城に入城しようと思ったのですが、手違いがあって入城できませんでした。
周囲は西軍の軍勢が取り囲んでいたため、島津隊は仕方なく西軍に味方することになったのでした。
島津隊は、およそ3000(一説には1500とも)。少ない軍勢ながらも『吉川広家(きっかわ・ひろいえ)書状』に「ゑり勢三千人」とあるように、選(よ)りすぐりの精鋭部隊だったといいます。
また、島津義弘を慕う家臣たちは、わざわざ国許(故郷)の薩摩から駆け付けて加わったそうです。源藤もこの軍勢にいたということは、島津家の勇猛果敢(ゆうもうかかん)な兵の一人だったのでしょう。
島津隊は、西軍を率いる石田三成に従って、関ヶ原の東にある大垣(おおがき)城(岐阜県大垣市)に入城しました。
それに対して家康は、9月14日に赤坂の岡山(岐阜県大垣市赤坂町)の本陣に入っています。ここで家康は、さらに西に向かい三成の居城である佐和山(さわやま)城(滋賀県彦根市)や西軍の本拠地である大坂城(大阪府大阪市)を狙う動きを見せました。
これを防ごうと三成は、島津隊をはじめとする西軍を率いて先回りをして関ヶ原に陣を敷き、東軍を待ち構えたのです。源藤も島津隊の一員として、笹尾(ささお)山(石田三成の陣)の南、天満(てんま)山(宇喜多秀家の陣)の北に置かれた、島津の本陣に詰めたのでした。
一発の銃声とともに開戦
そして、時は慶長5年(1600年)9月15日を迎えますーー。
濃霧の中、辰の刻(午前8時頃)に一発の銃声で戦いの幕は切って落とされたといいます。
銃弾を放ったのは、この戦が初陣(ういじん)の松平忠吉と、その舅(しゅうと)で後見役(こうけんやく)を務めた井伊直政でした。
東軍の先陣は福島正則(ふくしま・まさのり)と決まっていたのですが「家康の息子の初陣を立派に飾るため」もしくは「先陣を徳川家以外の者に譲らないため」に、井伊直政が福島正則を欺いて強引に先陣を務めたと言われています。
開戦直後、両軍は一進一退の攻防を見せました。西軍の石田三成の軍勢は、東軍の黒田長政(ながまさ)と細川忠興(ただおき)らの軍勢と、宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)の軍勢は福島正則らの軍勢と激しく戦いました。
開戦から一刻(2時間)ほど過ぎた頃、三成はまだ戦闘に参加していない軍勢に狼煙(のろし)を上げ、参戦を促します。その軍勢というのが、東軍の背後にある南宮山(なんぐうさん)に陣を張っていた毛利秀元(もうり・ひでもと=総大将の毛利輝元の養子)と吉川広家(毛利一族)の軍勢と、関ヶ原を見下ろす松尾山に陣を張っていた小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)の軍勢でした。
出陣の合図を出したものの、両者は動きません。毛利軍は既に家康に内通していたため不戦を通し、小早川秀秋は東西のどちらに付こうか、まだ悩んでいたといいます。